日吉大社・石積みまち坂本

公人屋敷

 公人屋敷(旧岡本邸)は、江戸時代に延暦寺の僧侶でありながら妻帯(さいたい)と名字帯刀(みょうじたいとう)を認められた「公人(くにん)」が住んでいた住居のひとつです。

 内部が原型をとどめないほど改装されている住居が多い中、岡本家の家屋は全体に公人屋敷としての旧状をよくとどめた社寺関係大型民家の特徴を示す住宅として残されてきました。

 平成13年に坂本地域の歴史的遺産の保存を目的として大津市に寄贈されたもので、主屋、米蔵・馬屋等は平成17年3月に大津市指定文化財に指定されています。


日吉茶園

 日本最古の茶園 平安の昔、最澄(伝教大師)が延暦24年(805年)中国浙江省天台山から持ち帰った一握りの茶種を比叡山の麓、大津の里に蒔かれ育ったのが日本茶の祖といわれています。

 平安時代初期に編纂された勅撰史書「日本後記」には「815年4月15日唐崎行幸の途中、嵯峨天皇が梵釈寺(大津市滋賀里)を過ぎたところで、永忠(えいちゅう)から茶のもてなしを受けた」と記述されており、これが、文献に残る日本での喫茶記録第一号となっています。この出来事は最澄上人がここ日吉茶園にお茶を植えてから、10年後だったそうです。


生源寺

 日吉大社大鳥居のすぐ前にあるり、奈良時代後期、最澄(767-822)によって開山されたと伝えられます。また、最澄の生誕地といわれ、延暦寺の中でも特別な霊地として崇められています。

 山門のかたわらに「開山伝教大師御生誕地」の碑があります。そして、山門を入ると右手の大きな古木の下に古井戸があり、最澄の産湯といわれています。また、隣接して別当大師堂があります。

 最澄の誕生年月日についてはいろんな説がありますが、生源寺では毎年8月18日に盛大な誕生会が行われます。 


大将軍神社

 創祀年代不詳ですが、日吉大社境外108社の一社である。天台宗開祖の伝教大師の産土神であり、坂本中の総社です。

 ご祭神は、大山祗神 岩長姫神です。

 鳥居を入ると右手に根っこばかりが目立つスダジイの巨樹があります。スダジイとしては滋賀県下でも有数の巨樹です。境内には欅(ケヤキ)の大木もあり、日吉大社参道には多くの巨樹が見られます。 


■里坊

 12年間は山を下りず、止観(顕教)と遮那(密教)の修学・修行をせよ、というのが最澄が取り決めた比叡山における「山家学生式」の基本項目の一つです。

 しかし、比叡山に「論湿寒貧」という言葉があるように、琵琶湖からの水蒸気のため湿気がひどく、冬の寒気も厳しいものでした。このため、60歳を過ぎた僧は天台座主の許しを得て、麓の坂本に下りて住むという習わしがいつしかできました。

 それが、山坊に対して里坊とよばれる、修行を経た老僧の住坊です。また、近世以降は座主も坂本に下りて住むようになり、坂本が延暦寺の行政の中心をなすようになりました。

 里坊は、石垣に囲まれて、大きな屋敷に木々が茂った自然の中にあえいます。現在、坂本には53坊が建ち並び、いずれも穴太衆の石積みの塀を構えています。 


旧竹林院

 かつての里坊の一つで1700(元禄13)年の創建。現在大津市が所有し、大正時代につくられた約3,300平方メートルの林泉回遊式庭園(国名勝指定)を公開しています。

 日吉大社の神体山である八王子山を借景にし、地形を巧みに生かして滝組みと築山を配置し、大宮川の清流が園内をめぐり、手入れの行き届いた木々や苔の緑が大変美しい庭です。

 園内には、2棟の茶室と四阿(あづまや)があります。なかでも茅葺き、入母屋造の茶室(大津市指定文化財)は、「天の川席」と呼ばれる間取り。二つの出入口が設けられ、主人の両わきに客人が並ぶ珍しい形式で、武者小路千家東京道場以外、例がないといいます。

 滋賀院、旧竹林院のあるこの辺り一帯は、延暦寺の里坊が集まっているところで、穴太衆積みの石垣道を愛でつつ、庭園を拝観することも楽しみです。里坊の中で名園として知られる寺院には、これらのほか、宝積院、双厳院、壽量院、律院、蓮華院、佛乗院などがあります。  


滋賀院門跡

 滋賀院は、天台宗に8カ寺ある門跡寺院の一つです。天台座主の里坊であり、総本坊である。門跡(みんぜき)とは、皇族や公家などが出家して代々入る寺、もしくは住職を指します。

 1615(元和1)年には、比叡山中興の祖・天海大僧正が後陽成上皇から御所の建物の一部を賜り、ここ坂本に移築しました。1655(明暦1)年には、後水尾上皇から「滋賀院」の号を賜り、歴代天台座主の御座所として地元では滋賀院御殿と呼ばれています。

 城郭のような穴太衆積みの石垣は、坂本でも随一の規模です。その上に5本線の白土塀と堂々たる勅使門(お成り門)を持ちます。2万平方メートルの広大な境内には、内仏殿・宸殿・二階書院・庫裡、6棟の土蔵などが建ち、格式の高さを誇る。贅を尽くした座主接見の間は、狩野派・渡辺了慶の襖絵など見るべきものが多くあります。

 従来の建物は1878(明治11)年11月、火災のためすべて灰となってしまいましたが、山上からそれぞれ最高の建物を移築し、1900(明治33)年5月に復旧しました。現在は、天台座主の対面所であるとともに、延暦寺の宝物などが陳列されて拝観できます。

 庭もすばらしく、宸殿の西側にある徳川家光の命によってつくられた小堀遠州作の庭(国名勝指定)は、自然の地形を利用した築山を背景に、泉水が水をたたえ、夏には睡蓮が白い花を咲かせます。池には長い石橋、山側から池の中央に滝口、中島に松、岩嶋、浮石があり、池畔には覗き石などを配する江戸初期の名園です。


慈眼堂

 滋賀院門跡の裏手にひっそりと鎮まるのが慈眼堂です。慈眼は南光坊・天海僧正に諡られた称号で、お堂は僧正の廟所です。

 天海は家康・秀忠・家光の三代にブレーンとして仕えた人物で、信長の攻撃で一宇も残さず焼き尽くされた叡山の再興に尽くしました。東の叡山・寛永寺の開祖でもあります。 


日吉東照宮

 徳川家康公は没後、静岡の久能山東照宮、後に栃木の日光東照宮にお祀りされましたが、東照宮造営に縁の深い天海上人が天台宗の僧侶であったこともあり、元和九年(1623)徳川三大将軍家光公の時に比叡山の麓に造営されました。 

 その際には本殿と拝殿を繋ぐ「権現造り」という様式を用い、できあがった社殿が素晴らしく、その様式を基に日光東照宮を再建したといわれています。 

 明治以前は比叡山延暦寺が管理をしていましたが、明治時代に入り神仏分離令が出されると共に日吉大社の管理するお社となり、今日に至っています。 

 昭和25年に社殿が国指定重要文化財に指定され、同31年に唐門と透塀が同じく重要文化財に指定されました。